定月大僧正と徳川将軍家
「衆人徳愛敬重する事、前代いまだ聞かず」と言われるほど高僧の誉れの高かった定月大僧正(1687-177l)が増上寺四十六世住職であった宝暦十一年(1761)六月十二日、九代将軍家重公が甍去。幕府は遺言に従い、将軍の帰依信仰が篤かった定月大僧正に大導師を依頼、七月十日増上寺本堂において葬儀が盛大に厳修されました。この徳により、宝暦十三年(1763)十一月、家重公(惇信院殿(じゅんしんいんでん))の「御中陰(ごちゅういん)の尊牌(そんぱい)」(白木の位牌)をお守りするため、寺社建立厳禁の当時に、官許により家重公の霊牌所として、一宇が創建されたのでした。
定月大僧正は、黒本尊を祀る護国殿の建立や本堂大修復など数々の功績がありましたが、明和三年(1766)十一月、増上寺住職を辞職、麻布一本松の隠居所に移られました。さらに明和七年(1770)十一月山下谷に移られ、幕府より二百石を賜り、翌年十一月、御本丸大奥老女方より、惇信院殿霊廟永代御供養料・仏具荘厳・水引・打敷・御膳具・御供養具などの寄進を受け、惇信院殿霊廟御念持仏も移されたのでした。こうして、定月大僧正は名実ともに妙定院の開山となられたのです。
その後、十代将軍家治(いえはる)公(浚明院殿)の尊牌も安置されました。
定月大僧正はまた文化人であっただけに書画をたしなまれ、また、深く山水樹木を愛されていました。晩年ほしいままに山野を登攀逍遙できなかったので、丸山を目前に赤羽川を後ろにした閑雅なこの浄地を選び、境内には築山や池をもつ庭園を設け、人々と共に念仏経行散策して、自然に親しんでおられました。
念仏の声絶えない浄業の別院であったのです。
さに、妙定院の建立は、定月大僧正に対する九代将軍家重公・十代将軍家治公の帰依によるものです。