やさしさが見つかる(著書紹介)
やさしさが見つかる〜法然さまからの生きるヒントが
小林正道著(妙定院住職)
ナムブックス12
発行 浄土宗
ISBN4-88363-812-X
¥315
お求めは 浄土宗出版

目次
 
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プロローグ
こころを大きく
精進と確信
おだやかさと、強さ
人生はそんなに難しいものではない
すべての上にふりそそぐ光
かざらない心を持って
足もとを見つめ、求めつづける
苦しみと、やさしさ
自らのこととしてとらえる
一歩、自分を掘り下げよう
<私>の心のおきどころ
災いをいかに乗り越えるか
すこやかな毎日を
祈りと、そのこころ
自らに向かう勇気、切り開く人生
あとがき
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5 すべての上にふりそそぐ光
 過日、車のラジオから、東京駅や東京タワーのライトアップ(照明)を担当したある照明デザイナーの話が耳に入りました。この二つの東京の名所は、今回の照明で本当に生き返ったように私たちを心地よくしてくれています。今度は東大寺大仏殿や興福寺五重塔の照明をする、との話でした。
 その人は「日本の建築に照明はあわないと言う人がいますが、あの月の光に照らし出される日本の建物は本当に美しいものです。それを参考にやわらかく浮かび立たせたいと思います」と語っていました。
 中秋の名月は毎年九月中旬ころですが、月の光はすがすがしく、だれをも照らし出してくれます。11章で詳しく説明しますが、法然さまのお歌に「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむる人の心にぞすむ」という歌があります。阿弥陀さまが私たちを照らしてくださるのを月光にたとえているのですが、法然さまはなんとすばらしい詩人なのでしょう。ロマンチストでもあったのですね。

 また、こんな言葉があります。

人目をかざらずして往生の業を相続すれば、自然に三心は具足するなり。
たとえば、葦のしげき池に、十五夜の月宿りたるは、よそにては月宿りたりとも見えねども、よくよく立ちよりて見れば、葦間をわけて宿るなり。
妄念の葦はしげけれども、三心の月は宿るなり。
                   (法然『乗願上人伝説の詞』)

 月が輝いていても、その照らされた池には葦がはえている─自分の心の中を乱し悩ませるはたらきが、自分の心の中にあるのです。いわゆる、煩悩ですね。
 池は月の光に照らされても、葦のために、月に照らされているようには見えないというのです。自分の心の障壁のために、仏さまの光が届いているように見えないのです。
 しかし、葦をかき分けてよく見てみると、やはり月はその池に宿っていると気づくというのです。迷い悩む人にも、仏さまのみ光は届いているのです。
 その葦の茂る池の月というのは、結局、月の光に照らし出されたものなのです。茂る葦のすき間からも池を照らしてくれています。
 悩み、不安を持つ私の中の小さなキラリと光るものは、仏さまの大きな力によって照らされているのです。いろいろな人や物、天地宇宙すべての恩恵を受け、私はここに生きているのです。
 お念仏の生活でも同様です。法然さまは、

一向専修には、ことに三心を具すべきなり。      (法然『念仏大意』)

と述べ、三つの心(三心)─ 
 @心いつわらないで振る舞う(至誠心)
 A自らを見つめ、反省の中に人のせいにせず、自ら仏の教えを信ずる生き方をする(深心)
 Bすべてのよい行いを回向して往生を願う(回向発願心)
─を持つことの重要性を強調しています。
 そして、この事に留意しながら日々をおくることが大切なのですが、葦がしげっていても月が池を照らしているように、迷いの心があっても念仏をしているうちにこの三心はそなわってくる、とも言われています。
 また、その月は、すべての葦、すべての池を照らしているのです。
 空に輝く月を仰ぎながら、足もとを見つめ、頭をあげて生きていこう─こんなことを考えてみませんか。
 そしてさらに、他の人のよい点をも、より見られるようになったら、こんなすばらしいことはないにちがいありません。月の光はすべての人にふりそそぎ、すべての人はそれに照らされているのですから。
6 かざらない心を持って
 いろいろなスポーツに人気が集まっています。試合を見ながら、多くの選手の活躍に感動し、力づけられ、また努力の末に思ったような成績が出せなかった選手にその厳しさを見、またそれが、心に残ります。
 結果となってあらわれたもののかげには、それぞれその人々のいろいろな気持ち・心があります。それを思うからこそ、私たちは心を動かされるのでしょう。
 お念仏の生活でも同様です。法然さまが強調された三つの心(三心)の、その第一は至誠心です。法然さまは、

至誠心という波真実の心なり。その真実というは、身にふるまい、口に云い、心に思わんこと、みな誠の心を具すべきなり。      (法然『御消息』)

と記しています。身のふるまいも、口による言葉も、心に思うことも、まことの心でなされるべきだというのです。まことの心とは、外と内の一致です。見かけは賢くがんばっているようでも、内心はそうではないことも多いものです。これではいけないとさとされているのです。
 法然さまは、次のようにも述べています。

一には外相は貴けにて、内心は貴からぬ人あり
二には外相も内心も、共に貴からぬ人あり。
三には外相は貴けもなくて、内心貴き人あり。
四には外相も内心も、共に貴き人あり。
四人が中には、先の二人は、いま嫌うところの至誠心かけたる人なり。これを虚仮の人と名づくべし。のちの二人は至誠心具したる人なり。これを真実の行者と名づくべし。        (法然『御消息』)

 外にあらわれた様子・ふるまいにかかわらず、内が尊いこと─それが至誠心を持った人ということになります。心が真実であり、行いと一致していることが、大切なのです。
 では、内さえよければ外はどうでもいいのでしょうか。法然さまは、以上のことに加えて、

内心のまこともやぶるるまでふるまわば、また至誠心かけたる心になりぬべし。
                       (法然『浄土宗略抄』)

とお示しになっています。
 あまりにひどい行動によって、内心にまで悪影響を及ぼすというわけです。少しくらいよいだろうと、いいかげんな行為や言葉で毎日をすごすと、心の中まで荒れてきてしまうことへの、警告でしょう。
 私たちは、外と内とはどうもずれてしまうことが多いようです。また外を飾ってしまうこともありますし、表裏をつくってしまっているということもしばしばです。法然さまはそんな人間のありさまを見抜かれていたのです。
 法然さまはさらに、

至誠心というは、まことしく往生せんと思いとりて、念仏を申すなり。
                       (法然『聖光房に示されける御詞』)

と、まことの心を持つというのは、心の底から極楽に往生したいと思って念仏を申すことだとも言われています。
 まことの心を持とうと毎日思いおこしながら、お念仏をしていく─そんな日々をすごしたいものです。

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